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2013年1月 4日 (金)

新年会

昨日は江古田にあるギャラリー水土木さんの新年会兼お誕生日会に出席しました。まず、参加者のおひとりの方の香道の実演を見せて体験させていただきました。話には何度も聞いたことがあったが、実際に香を炊いたのを聴かしていただいたのは初めてであり、貴重な体験をさせていただきました。

香道体験のあとにお茶会となり、裏千家師範の瀧島さんのたてた抹茶をいただきました。その後は豪華な料理とお酒をいただきながらの宴会となりました。練馬区まちづくりセンターの小場瀬所長も参加いただき、岐阜県の大正村づくりに関わったことやつくばでの野菜工場のことなど貴重なまちづくり体験の話しを聞くことができたり、楽しい新年会となりました。また、参加者の方で私と同じ名古屋市の出身でしかも同じ高校の先輩の方がおられ、名古屋城の金の鯱の話をしているうちに、昭和20年に出身校の市三がアメリカ軍の空襲爆撃を受けた際42名の女学生が殺されたお話をしたところ、なんとその現場におられたとのことでした。当時の惨状を聞かせていただいたが、あまりにも惨い状況に改めてアメリカ軍の残虐な行為に対する怒りの気持ちと二度とこのような酷いことがおこらないように決して忘れてはいけないことだと認識させられました。当時の学校跡は公園になっていますが、そこの片隅に慰霊碑が建てられており、昨年名古屋に行ったときに見てきたことや、毎年近くの建中寺で慰霊祭が行われていることをお話ししたりしました。

とてもすてきな新年会、お誕生日会でした。

 

〇香道

香道とは、文字どおり香りを楽しむことを基本とした芸道で、茶道や華道と同じく、動作の中に精神的な落ち着きを求める日本古来の芸道です。その歴史は茶道や華道と同じく室町時代にまで遡りますが、香木を焚いて香を楽しむことは、聖徳太子の飛鳥時代からといわれています。宗教的な側面も大きかったでしょうが、何より「良い香りを楽しむ」という、人間の快楽を満足させるものであったでしょう。

 

〇2009年中日新聞記事

戦争で亡くなった同級生らの法要をする第三高等女学校の関係者ら=名古屋市東区の建中寺で  太平洋戦争末期の1945年、空襲で旧制市立第三高等女学校(名古屋市東区、現県立旭丘高校)の生徒42人が犠牲となった「市三の悲劇」から64年の23日、65回忌の法要が東区筒井の建中寺で開かれ、東京や大阪などからの元生徒も含め約150人が参列した。  同校の同窓会、三稜会が一周忌から五十回忌の1994年まで毎年、同寺で慰霊の法要を開催。

名古屋市東区、橦木町筋と鳥屋町筋(注1)が交差する角に山吹谷公園があります。この公園の南西の片隅に「名古屋市立第三高等女学校ここにありき」などと刻まれた、3個の石碑が木立に抱かれてひっそりと建っています。碑陰大正12年4月開校、昭和20年1月23日学徒42名爆死、と記されていました。当時大曽根の三菱航空機に勤労動員されていた女生徒42名が米軍の空襲に遭い爆死したそうです。戦後67年を経て、薄れがちな戦争に対する意識、命の大切さを再確認するためにも、末永く残したいモニュメントです。静かに目を閉じると、葉ずれと秋の虫の音が、優しく碑を守ってくれているようでした。
 なお、名古屋市立第三高等女学校は、昭和23年の第一次高等学校編成により愛知県立第一高等学校に統合され、愛知県立旭丘高等学校として発足しました。

〇【大正村構想】

 長野県木曽郡日義村の沢田正春氏の「大正村の看板を立てれば、人はきっと集まる」という構想を明智町観光協会が受け激論が繰り返された。

 今まで観光客などおとずれた事のない町であったことや国鉄明知線廃止問題を抱える観光協会は反対のムードが高まっていた。

 しかし、当時の明智町が時代に取り残されていくという危機感と、推進派の説得により意見は逆転し、昭和58年9月25日に観光協会は大正村建設を決断した。

   

【日本大正村立村】

                              大正村建設に踏み切った観光協会は昭和58年11月6日には大正村設立準備委員会を発足、翌年5月6日には大正村実行委員会へと生まれ変わり、日本大正村を立村した。

 旧明智町役場を事務所を儲け、「日本大正村役場」として看板を掲げ、沢田正春氏の狙い通り、多くの観光客が訪れることとなった。

 

 しかし、観光客を迎えるには不十分な箇所もあり、明智町の住民は「大正路地から大正村役場までの道を石畳に」「資料館を」「町営駐車場を」など様々なアイディアを出し始めた。そのアイディアは昭和60年度から始まった自治省の「町づくり特別対策事業」で実現する。3年間で3億6千万円の予算で行い、国の負担は2億6千万円、町の負担が5千万円、残りの5千万円は住民からの寄付を募った.

  

 

 訪れる観光客の中には「どこにでもある町」と非難する人もあったが、概ねは故郷の様な雰囲気やゆったり出来る空間を快く受け入れてくれた。

 また、昭和60年には東京大正会と交流を行ったり、全国に応援をする人が増え、多数の貴重な資料や物品の提供を受けた。

 

 その結果、資料館の入場者は昭和61年には約6万人、昭和62年には15万人に及んだ。

 

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